戸時代の川柳には、一読しただけでは意味が判りにくい言葉にしばしば出合う。この句では、「名の下で」というのがそれ。名というのは、何かの表札か看板を指しているらしい。
例えば、ある看板を掲げた商店で、客の入りを待つ番頭や手代。ところが、一向に客がやってくる気配はない。手持ち無沙汰の番頭は、傍らのたばこ盆からキセルを取り上げ、たばこを吹かしていたが、それも飽きたのか、いまではキセルをおもちゃにするばかり。いや、“ひまなこと”。
三味線や長唄など芸事の師匠となると、名取の看板を掲げて弟子をとったものである。しかし、名前ばかりで、ちっとも弟子の付かない名取もあった。そのような師匠は、看板を掲げた以上、家を空けるわけにもいかず、所在なげに、火鉢の前でたばこを吹かしたり、キセルを回したりして、無聊(ぶりょう)を慰めるしか術がない。
あるいはまた、吉原などの遊廓では新規の遊女が入ると、遊客に紹介するため見世先へ名札を掲げた。そんな新入りさんには興味をもつ客もあったろうが、この句の遊女には、まだ客が付かない様子。人待ち顔にキセルを回す仕種がいじらしくもある。
ともかくも、何かを待つ身には、時の流れが遅く感じられるもの。そんな時は、たばこを吹かしたり、キセルを回したりして気持ちを紛らす。そうこうするうち、やがては、“一陽来復(いちようらいふく)”“福の神の御入来(ごにゅうらい)”と相成る。江戸時代の知恵は、今の世にも生きている。たばこを吹かしたり、パイプを弄んだり(もてあそんだり)することが許されない御時世にでもなったなら、一体どうして無聊を慰めようか、福の神を招き寄せようかと、あらぬ気遣いをさせる一句である。 |