LEGEND
広島サンダーズのレジェンド
猫田勝敏ストーリー3
バレーボールを愛し、バレーボールに生きた世界一の名セッター、猫田勝敏
生涯をバレーボールにささげた男がいた。オリンピックに4大会連続出場(東京・メキシコ・ミュンヘン・モントリオール)し、金・銀・銅のメダルを手に入れ、世界一のセッターと言われた猫田勝敏。一生のうち、バレーコートで過ごした時間が一番長かったといえる猫田は、39歳という若さでこの世を去った。「一にバレー、二にバレー、三にバレー、最後くらいに私たち家族かな……」そう禮子夫人が語るように、バレーボールは猫田の人生そのものだった。
禮子も元気で、子どもにも心配がない。これが私の宝です
とうとう夢にまで見た金メダルを手に入れ、名実ともに世界一のセッターになった猫田は、家では普通の“お父さん”であった。父親の影響でバレーボールに興味を持った娘2人には、暇さえあればバレーボールを教えた。「そうやったらダメ」という言い方は決してせず、「そうそう、うまいぞ!」「さっきのを思い出して、もう1回やってごらん」など、必ず子どもたちのいいところを伸ばすように教えた。また、一人息子の忠明君を頻繁に釣りへ連れて行った。ときには、忙しいスケジュールの合間を縫って、家族旅行にでかけることもあった。
「一年に一回くらいは、あのような旅をしたいと思います。一般の家庭ではありふれた事でしょうが、バレーをやっての生活では、これで精一杯。そんな感じがします」
(禮子夫人にあてた手紙より)
禮子夫人にあてた手紙が語っているように、限られた時間の中で家族とのぬくもりを大切にした。
体育館に早う帰らにゃ……
17年間、日の丸をつけて戦い続けてきた猫田は、 1980年に36歳で現役を引退し、指導者の道を歩み始めた。そして専売広島の監督として采配を振るっていた2年目、猫田を病魔が襲う。胃がんであった。胃をすべて摘出し、再び監督としてベンチに戻った猫田だったが、再び入院。バレーと戦っていた人生が、がんとの戦いに変わる。闘病中も常にチームのこと、バレーボールのことを考えていた猫田。点滴の針を手首から先には決して打たせることがなかった。それは、トスの感覚が鈍り、サインも出せなくなってしまうから――。
そして、「体育館に早う帰らにゃ……」そうつぶやいた1983年9月4日、異変が起きた。後に、当時の看護婦さんが語っているように、「ミュンヘンオリンピック」(1972年)の決勝戦、マッチポイントを迎えた時のように、猫田は人さし指を立てて、「後1本……、後1本……」とつぶやき、永遠の眠りに入ったのだ。
いろんな寂しいこと、悲しいことがあるでしょうが、頑張るように
15年の結婚生活のうち、家族と一緒にいられたのは2年間ほどだったという。しかし、たくさんの手紙が語っているように、家族との温かな絆があったからこそ、バレーボールに打ち込めたのだろう。
「――(前略)――未来の二人の姿、あるいは子どもをつれて桜でも見に行っている姿を思い浮かべてください。そんな未来の楽しい姿こそ、生きるよろこびをあたえてくれるでしょう。平凡な生活。今の二人、平凡ではない。私が世界一になれるかどうかわからないけど大きな仕事をしている。この今の生活が終わった時、どこにでもある平凡な生活を築きましょう。それまでいろいろな寂しいこと、悲しいことがあるでしょうが頑張るように――(後略)――」
(1968年3月22日付 婚約時代の禮子夫人にあてた手紙より)
『専売広島』を日本一にするんだ
日本代表として世界を舞台に戦い、数々の栄誉を手に入れてきた猫田。専売広島では、1973年の「第7回日本リーグ」、1978年の「第12回日本リーグ」で準優勝、1979年の「宮崎国体」で優勝に輝いている。1980年に現役を引退してからは、専売広島の監督として采配を振るった。胃がんのため約3カ月入院したときも、退院した当日、その足で体育館に向かい、チームの練習に立ち会ったといわれている。それは、何よりもバレーボールを愛していたというのはもちろん、「専売広島を日本一にするんだ」という夢があったからだろう。世界一にまで上り詰めた猫田が、ただひとつ、叶えられなかった夢――日本リーグチャンピオン(現SVリーグチャンピオン)。夢を叶えられぬ無念を残していった猫田だが、後に託したバトンは、歴代の選手たちの手でしっかりと受け継がれ、2015年、ついに広島サンダーズの歴史に“リーグ優勝”という新たな1ページを加えることになった。