LEGEND
広島サンダーズのレジェンド
猫田勝敏ストーリー2
バレーボールを愛し、バレーボールに生きた世界一の名セッター、猫田勝敏
生涯をバレーボールにささげた男がいた。オリンピックに4大会連続出場(東京・メキシコ・ミュンヘン・モントリオール)し、金・銀・銅のメダルを手に入れ、世界一のセッターと言われた猫田勝敏。一生のうち、バレーコートで過ごした時間が一番長かったといえる猫田は、39歳という若さでこの世を去った。「一にバレー、二にバレー、三にバレー、最後くらいに私たち家族かな……」そう禮子夫人が語るように、バレーボールは猫田の人生そのものだった。
「スマン」「頼む」「ありがとう」
「スパイカーがミスをしても決して責めない。そんな男ですね、猫田勝敏は。愛情のこもったセッターというか、アタッカーが打ちやすいかどうかをまず考える。逆にアタッカーがミスをしたら、自分のトスが悪かったと謝っていました」
当時のチームメートが語るように、試合中の猫田には3つの口癖があった。「スマン」「頼む」「ありがとう」。スパイカーが一番打ちやすい状態を考えて上げる猫田のトスは、相手の立場を考えた思いやりのトスといえた。アタッカーが一番打ちやすいといわれているオーバーパスを、猫田はどのような姿勢からも上げた。自分がどんなに無理な体勢でもできる限りボールの下に入り、ときには身をていしてコートへ転げ落ちることもあった。そんな猫田を、当時のチームメートは、「よく相手の状況を見ながら、極端に言えば左目でボールを見て、右目で相手のブロッカーを見て、いろいろなコンビネーションを考えていた」と語っている。
そんな猫田を、松平監督は、「100年に1人しか生まれない大変な選手」と語った。そう思ったのは、何も松平監督だけではなく、世界のバレー界も同じであった。メキシコオリンピックの翌年、1969年に開催された「第2回ワールドカップ」で、「ベストセッター賞」を受賞し、名実ともに世界一のセッターへと上り詰めた猫田。
次に狙うタイトルは、金メダル。そんな猫田に、思わぬアクシデントが起こる。
オレの分まで頑張って来い!
「ミュンヘンオリンピック」の前年、1971年9月28日、専売広島は、宮崎県日向市で招待試合を行っていた。そこで猫田は、チームメートの西本選手と接触し、右腕を複雑骨折してしまう。診断は全治2カ月。「猫田なくしてミュンヘンのメダルはない」――この言葉は、今や松平監督だけのものではなく、日本のバレー界の言葉になっていた。
“バレーをやめなくてはいけない”と責任を感じる西本に、猫田は「どうしたんだお前。しょげているじゃないか。そんなことじゃダメだぞ。今、俺ができない分、お前が頑張ってくれないといけないじゃないか」と励まし、自らの代わりに、全日本へ推薦。「オレの分まで頑張って来い!」と送り出した。
そして猫田は、焦る気持ちをトレーニングという方法でぬぐい去った。毎日、病院の1階から屋上までの階段を上り下りし、左手をバーベルで鍛えた。しかし、2カ月たっても骨が完全につながらず、再手術の後、約8カ月間のリハビリ生活が続いたのだ。
結局、復活を遂げたのは、オリンピックまでわずか2カ月に迫った1972年6月25日のNHK杯。「2番、猫田選手が出場します」と場内アナウンスが流れるやいなや、東京体育館に大きな拍手が沸き起こった。元来、目立つことが嫌いな男は、超人的な忍耐力で不可能を可能にし、何事もなかったかのように淡々と試合に臨み、奇跡的なカムバックを果たしたのである。
ワシはオリンピックで絶対トスを上げるけ、人には絶対負けないよ。絶対負けない!
1972年、「ミュンヘンオリンピック」。奇跡的なカムバックを果たした猫田と日本男子チームは、コンビネーションバレーで予選リーグを全てストレートで下し、決勝リーグに駒を進めた。しかし、準決勝のブルガリア戦で思わぬ苦戦を強いられてしまう。第1・2セットを連取され、絶体絶命の状況に追い込まれたのだ。日本は、猫田をベンチに下げるという異例の策を取る。この間、ベンチで試合を冷静に見つめ、試合の流れを完璧につかんだ猫田が再びコートへ戻ったのをきっかけに、トスが正確さを取り戻し、同時にコンビネーションバレーが目を覚ました。第3セット4-7から逆転し、そのまま第3・4セットを取り返す。第5セット序盤は、ブルガリアに大きくポイントをリードされてしまうが、ここでも猫田のサーブで流れが変わった。ブルガリアのリズムを崩したのだ。そして、3時間15分の死闘の末、大逆転で金メダルへと一歩前進した。
決勝戦の相手は強豪東ドイツ。夢にまで見た金メダルがすぐそこまで近づいていた。14-10でマッチポイントを迎えた日本。チームメートに人さし指を立てながら、「後1点、後1点」と声をかけながら猫田がサーブに入った。東ドイツのアタッカーが放ったボールは、日本コートの左外へ落ち、アウト。この瞬間、日本は、猫田は、世界の頂点へと立ったのだ。