日本の葉巻
葉巻を吸う外国人の姿が国内でも多く見られるようになると、人々は彼らが吸う葉巻に興味を抱くようになり、輸入量も増加します。大正時代に専売局がまとめた統計によると、明治元年(1868年)には、約8,700キロ・総額4,516万430円分の葉巻が輸入されていました。このころ、同様に輸入された刻みたばこなどは、約4,800キロ・総額218万1,300円分であり、この違いから見ても、葉巻が輸入たばこの主要品だったことが推測できます。 では、この葉巻を誰もが嗜めたのかといえば、実はそうではありません。舶来品の珍しいこの品を実際に手にできたのは、都市部で暮らす富裕層に限定されていました。彼らの間では、葉巻は“ハイカラ”の象徴的な存在であり、キセルに替わる新たな喫煙形態として注目されたのです。そして、“ハイカラな人々が吸うハイカラなたばこ”は、徐々に一般にも浸透することになりました。 |
人力車の上で葉巻をくゆらせる紳士の姿を捉えた絵画。 |
葉巻が新しい喫煙形態として注目を浴び始めると、国内での葉巻の製造に挑む者が現れます。彼らは、葉巻の販売を新たなビジネス・チャンスとして捉え、価格を抑えた商品を販売することで財を成そうと考えたのです。その動きは東京と熊本から始まりました。 |
日本で一番最初に葉巻を製造したとされているのは、熊本県の「阿蘇商社」です。ここで中心的に活躍した人物を、野田大九郎といいます。 地元産業の発展を願い、阿蘇産の葉たばこを用いた葉巻を製造しようと考えた野田は、明治6(1873)年に「阿蘇商社」を設立後、葉巻の先進国とされていたフィリピンのマニラへ単身で渡航。現地の状況を調査した後に、2人の職人とともに帰国し、熊本で葉巻作りに着手します。ところが、製造当初の「阿蘇商社」の葉巻は、輸入品の葉巻と比べると品質が低い上に高価だったため、なかなか販路を広げることができませんでした。そこで野田は、職人らとともに試行錯誤を重ね、外国産の製品に劣らない良質な葉巻を創出。明治9(1876)年には、アメリカ・フィラデルフィアで開催された万国博覧会において、賞状を授与されるまでになったのです。 しかし、その栄光もつかの間のこと。「阿蘇商社」の葉巻工場は、明治10(1877)年に西南戦争の戦火によって消失。野田は明治14(1881)年に失意のうちに他界し、葉巻の製造が再開されることもありませんでした。 |
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〈上〉阿蘇産の葉たばこの“黒葉”。葉が大きく肉厚な点が葉巻の原料に適していると評価され、明治以降は、海外にも輸出されていた。 |
「阿蘇商社」が葉巻の製造を断念した約10年後に、葉巻作りに挑んだ人物がいます。その名は、岩谷右衛(いわやうえ)。彼は、口付たばこの「天狗たばこ」で名を馳せた“明治のたばこ王”こと、岩谷松平の実弟でした。 右衛が、本格的にたばこと関わり始めたのは明治14(1881)年のこと。兄である松平の命により渡航した彼は、アメリカで、葉たばこの耕作法や紙巻たばこの製造法など、たばこ作りのノウハウを3年にわたって学びます。そして帰国後には、兄弟の故郷である鹿児島で、アメリカから持ち帰った葉たばこの試作栽培を試みたのです。この葉たばこの試作は成功を収め、これが彼に葉巻作りをめざすきっかけを与えました。それから2年後の明治19(1886)年に、右衛は東京へ進出。当時の東京府から補助金を得た彼は、現在の渋谷区・青山界隈で葉たばこの試作を始め、葉巻作りに着手します。この新規事業に賭ける右衛の情熱は相当なものだったようであり、彼が出稿した広告には、『日本人の嗜好にあった葉巻を作るためには、栽培法や製造法に改良が必要であり、自分はこのような仕事に取り組んでいる』と記すほどでした。 しかしながら右衛は、志半ばの明治20(1887)年に39歳で夭折。たばこ作りは息子に受け継がれたものの葉巻が製造されることはありませんでした。 |
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〈上〉岩谷右衛が出稿した広告。葉巻作りに加え、紙巻たばこの製造にも取り組んでいることが記されている。 |