ルタヒコノオオカミは、古事記や日本書紀に登場する神の名である。ニニギノミコトが葦原中国(あしはらのなかつくに)に天降ろうとしたとき、道案内を申し出、のち伊勢国の五十鈴川のほとりに祀られた神である。長い鼻をもち、赤く輝く目をした、背の高い異様な姿をしていたという。宮廷神事の滑稽なわざを演じる俳優の守護神として、また、町や村の辻々を守る神として崇められるようにもなった。
江戸時代、村里の神社の祭礼では神楽が舞われたが、この里神楽(さとかぐら)にはスサノオ、ヤマトタケル、おかめ、ひょっとこなどにまじって、容貌魁偉(ようぼうかいい)なサルタヒコも登場した。神社の境内でそれぞれ仮面を付けた舞い手たちがひとしきり神楽を舞い、鎮守の神と村人たちとを共に楽しませたのち、しばしの休憩に入る。舞い手たちは、それぞれの面を頭の上へずらして素面を現すが、サルタヒコの長い鼻が頭頂にくると、まるで角が生えたように見える。そんな恰好で、たばこを一服吸い付けたところが、いかにも面白い、というのである。
この句の面白さは、以上のような情景にあることはもとより、「神様が角を生やす」とか、「神様が一服吸い付ける」という意味にもとれる表現の妙にもあるだろう。つまり、この句を読む者は、神様が極めて人間くさい仕種をしている様子を脳裏に思い浮かべて、思わず微笑んでしまうのである。
もともと、日本の八百万(やおろず)の神々は西方の唯一絶対神とは異なり、人間くさいところが多い。それは、ギリシャの神々やマヤの神々とも共通する。たばこ文化発祥の地“マヤ”では、自らたばこを吸う神様も登場し、たばこはそんな神様から人間に贈られた霊草であるとされた。そのことを知るはずもないこの句の作者ではあるが、図らずも、神と人とがたばこを介して一体化したさまを描いたことになる。 |