屋に住む寺子屋の師匠だろうか、それとも傘張り浪人だろうか、ともかくも“先生”と呼ばれる人物が、隣組か何かの寄り合いが終わって、たばこ盆の灰吹きにたまった灰を捨てさせられている情景である。「灰吹き」はキセルの吸殻を落とすためのもので、今日の灰皿に相当する。
この句は「気の付かぬ事」という出題に対して作られたものである。寺子屋の師匠などは、表向きは“先生”と呼ばれて尊敬されているようであるが、寄り合いの席ではたばこの灰捨てを命じられるなど“小間使い”さながらの役回り。そのことに本人は気付かず、“先生”と呼ばれていい気になっているところがおかしいというわけである。
江戸時代、寺子屋の部屋のように寄り合いの可能な場所は、句会や無尽講(むじんこう)など、さまざまな催しにも使われたようである。その場合、宿主側は湯茶のサービスもした。そんな時、日頃寺子屋の師匠で通っている御仁も接待に駈り出され、「先生、ついでにこれも」といって灰吹きにたまった灰を捨てさせられたりもした。それを嫌がらずに引き受ける“先生”でもあったろう。ユーモラスで人情味があふれる光景である。
この句からもわかるように、江戸の昔から人が寄り集まるところ、湯茶のサービスはもちろん、たばこ盆が必ず用意されていた。人々は茶をすすり、たばこを吹かすことで、互いに気持ちを和らげ、意思疎通をなめらかにしたのである。そして、寄り合いが終われば、“先生”も皆と一緒になって茶碗や灰吹きの後片付けをした。たばこという嗜好品の前には、身分の上下はなかったようである。 |