フィスであれ、私宅であれ、来客があったときには、まず応接間や客間へ通し、お茶を出すというのが、ごくごく常識的な接客の作法である。一般的には、茶を出すのは主客がそろってからである。主人の出が手間取る場合は、手もち無沙汰の客はつい、たばこでも一服つけたくなる。テーブルに灰皿が出ていればよいが、灰皿がない場合は……。
「あのォ、灰皿をお貸しいただけませんか」と訪問先の人に声をかけたいが、昵懇(じっこん)の間柄でもないかぎり、訪問早々では言葉に出すのも憚(はばか)られる。そこで一つ咳払いをする。
「えへん」
反応がない。では、もう一つ。
「えへん」
接待にあたる側は、ドアや襖ごしに咳払いを聞いて、ようやく客が何かを求めているらしいことに気づく。<何かしら。お茶の催促かしら。そうじゃないわ、お茶は主(あるじ)が出てからだということぐらいお客様もご存じのはず。あ、そうそう、灰皿が出てなかったのだわ。はいはい、ただいま>と接客係は心のうちでつぶやいて、いそいそと灰皿を運ぶ。目礼してテーブルの上に置くと、客も笑顔で目礼する……。
こんな経験は誰にもよくあること。冒頭のことわざは、青森県五戸地方のもので「相手が咳払いしたら、すぐたばこ盆を出すくらいの機転がほしい」という意味である。
たばこ盆には火入れや、灰落としなどがセットされており、昔はどの家庭にも備えられていて、たばこのみはおおいに重宝した。今日でいえば、灰皿と卓上ライターのセットがそれにあたる。時代が移っても、喫煙具の用意された応対に接すると、なぜかほっとするのが、愛煙家のいつに変わらぬ心情である。“咳払い”で意思を通じようとする人など、いまでは少なくなったが、来客の場所には灰皿の用意を忘れたくないものである。
|