- “世界一の名セッター”の功績を称える
- “世界一の名セッター”と言われた猫田勝敏の功績をたたえて、1989年に広島県広島市に建設された猫田記念体育館。外壁に大きな広島サンダーズのロゴマークがあるように、広島サンダーズの本拠地であり、バレーボールの国際大会も開かれます。竣工以降、広島サンダーズの練習見学やイベント、試合などで多くの方々に足を運んでいただいていますが、猫田の功績の数々が展示されている「ギャラリー」が設置されているのはご存じでしょうか? 猫田の足跡を辿るとともに、今なお広島サンダーズに引き継がれる猫田スピリットを猫田記念体育館の「ギャラリー」を通して紹介します。
フロアギャラリー
猫田記念体育館の1Fにある「ギャラリー」には、数多くの写真やオリンピックで獲得した金・銀・銅のメダルのレプリカ、着用したユニフォーム、家族にあてた手紙――などなど、偉大なセッター猫田の足跡を辿ることのできる品々が展示されています。
メダル
オリンピックで勝ち取った3つのメダルの他、各大会で獲得した盾やトロフィーが多数陳列されています。
猫田が手にした3つのメダル
4大会連続オリンピックに出場し、3つのメダルを手にした猫田。「東京オリンピック」の銅メダル、「メキシコオリンピック」の銀メダル、「ミュンヘンオリンピック」の金メダル、それぞれのレプリカが展示されています。
猫田勝敏君之像
猫田の命日が近づくと、この胸像の前に多くのファンから献花があります。また、SVリーグ開幕前には、広島サンダーズの選手や監督ほかのメンバーが、胸像の前で必勝を誓い、出発します。
ユニフォーム
猫田のバレーボール人生でさまざまな想いが染みこんだ全日本時代のユニフォームやスパイク、オリンピック日本選手団のユニフォームなどが飾られています。
「モントリオールオリンピック」(1976年)使用ユニフォーム
「東京オリンピック」(1964年)では背番号17番でしたが、それ以降、背番号2番をつけて戦い続けた猫田。後に、猫田が闘病中もずっと気にかけていた専売広島(後に広島サンダーズ)の選手のひとり下村英士が、猫田の後を引き継ぎ全日本で2番をつけて戦いました。
壁画
ルイ・フランセン氏による壁画
猫田記念体育館のエントランスを抜けると、右側の壁一面に猫田の壁画が描かれています。ベルギーのアーティスト、ルイ・フランセン氏によって造られたこの壁画は、「ミュンヘンオリンピック」(1972年)をテーマに、京都の信楽焼を使用して制作されました。
レリーフ
松平康隆氏より送られたレリーフ
壁画の隣に展示されているこのレリーフは、猫田記念体育館建設を記念して、「ミュンヘンオリンピック」(1972年)に出場した男子バレーボールチームより贈られたものです。共に戦い、共に金メダルを勝ち取ったコーチやトレーナー、そしてチームメイトたちの名前とともに、松平康隆氏のメッセージが刻まれています。
フォトコレクション
猫田記念体育館には、オリンピックでの表彰式、試合の様子、プライベート、そして家族など、数々の写真が展示されています。
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20歳と8か月という最年少で出場した『東京オリンピック』。主将の出町豊と対角を組むツーセッターで活躍し、日本は見事銅メダルを獲得。「日本に猫田あり」を最初に印象づけたデビューの大会でした。(ネット際、左端が猫田)
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「ミュンヘンオリンピック」(1972年)の前年、試合中に右腕を複雑骨折し、2度の手術を乗り越え、広島市近郊の比治山でトレーニングに励む猫田。日本のバレーボール界にも大きな衝撃を与えたアクシデントでしたが、強靭的な精神力で見事復活を遂げました。
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1972年9月8日、準決勝の対ブルガリア戦は、試合時間3時間15分にも及ぶ大激戦でした。第1・2セットを連取され、続く第3セットを4-7とリードされてからの大逆転劇は、日本全土を興奮の渦に巻き込みました。金メダルへとはずみをつけた死闘を制した瞬間、両手をあげて歓喜の輪の中に加わる猫田。(背番号2が猫田)
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夢にまで見た金メダルを獲得した猫田(写真右端)。『ミュンヘンオリンピック』の前年に右腕を複雑骨折した時も、松平監督が「金メダルはネコ以外では考えられない」と決意し、そのとおり起用して、見事金メダルを獲得したことはあまりにも有名な話。
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猫田は、優しい夫であり、父でした。「メキシコオリンピック」から帰国した直後の1968年12月9日、職場の同僚であった禮子さんと結婚。長女・桂子さん、次女・優子さん、長男・忠明くんの3人の子どもをもうけました。(1975年12月、末っ子の忠明くん誕生の年の記念写真)
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元来、目立つ事が嫌いな猫田は、日本選手団の旗手の依頼が来た時、「嫌だ、嫌だ」と禮子夫人に向かって、子どものようにダダをこねたとか。
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長年のバレーボール界に尽くした功労を賞されて、1980年6月17日、日本バレーボール協会より「バレーボール栄誉選手賞」を受賞。猫田は、目を潤ませながら「長いことようやれたなあと、胸にジーンとくるものがあった」と喜びを語ったそうです。
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「モスクワオリンピック」出場の夢が断たれた後、猫田は全日本を退き、専売広島の監督に就任。恩師の稲葉正文氏を総監督に迎えた時は、「これで毎晩、先生とバレーの話ができる」と大喜びしたそうです。(「第14回日本リーグ」で采配を振るう猫田。1人おいて稲葉総監督)
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「稲場正文氏なくして猫田は生まれなかった」と言われるほど、猫田の才能を見いだし、育てた恩師。猫田自身も「ワシの人生で大きく影響を与えた人」というほど信頼し、いつでもどこでもバレー談義になったという。稲葉氏が病で闘病生活を送っていた時は、ほぼ毎日病院へ向かい、できる限り側で世話をし、生涯の恩師との残り短い日々を過ごしたというエピソードも残っています。(1982年8月撮影)