A History of Tobacco たばこの歴史
徳川幕府と「たばこ」の関係
江戸時代の日本において、「たばこ」は庶民の身近な嗜好品となります。
しかし、その流れの裏側では「たばこ」は度々、禁令を発令されていました。
徳川幕府にとって「たばこ」とは、どのような存在だったのでしょう?
「たばこ」を進呈された徳川家康
  慶長年間(1596〜1615年)には、すでに日本に伝来していたとされる「たばこ」ですが、最初に出合った人物として記録上に残るのは、江戸幕府を開いた徳川家康です。それはスペインのフランシスコ会の修道士ヘロニモ・デ・ヘススからの贈り物でした。では、なぜ家康に「たばこ」が贈られたのでしょう?
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自身で薬を調合していたとの逸話も残る徳川家康。当時としては極めて長寿の75歳で生涯を閉じた。

  家康が、慶長8(1603)年に征夷大将軍になる以前の日本では、天正15(1587)年に豊臣秀吉が発した「バテレン追放令」により、キリスト教が禁圧されていました。このためヘススは、スペインと日本との間に友好関係を結ぼうと、海外との貿易ルートを探す家康に謁見を申し出たのです。

  ところが、慶長6(1601)年に行われた会談の当日、家康は病床に伏していました。そこでヘススはさまざまな土産物と一緒に、「たばこ」を原料とする薬と、「たばこ」の種子を家康に献上したのです。この時、家康は「たばこ」についてこまごまと尋ね、列席の役人に効能や特性を書き留めさせたといわれます。
  これが記録に初めて残る“「たばこ」の種子の伝来”であり、以後「たばこ」は、江戸幕府の政策に深く関わることとなったのです。
南蛮屏風
安土桃山時代(1568〜1603年)に、絵師・狩野内膳が手掛けた「南蛮屏風」。
日本国内で活動する宣教師の姿が描かれている。写真提供/神戸市立博物館
フランシスコ・ザビエル
天文18(1549)年に鹿児島に到着したフランシスコ・ザビエル。
その来日により、日本でのキリスト教の伝道活動が始まった。
「たばこ」の扱いにとまどった幕府
  庶民の間に喫煙の風習が広がりはじめた頃、徳川幕府は「たばこ」の禁煙令を発します。この「たばこ」に関するお触れは後に、「たばこ」の栽培の禁止など、幾度か内容を変えて発令されますが、その目的には「たばこ」自体への非難とは異なる以下のような背景もありました。
1.反幕府勢力の抑制
人々に乱暴狼藉を働く反社会的な浪人集団=かぶき者が京の街に出没。この集団が、南蛮渡来の珍しい風習である「たばこ」を徒党のシンボルとしていたため、幕府は彼らの統制を目的に禁煙令を発した
2.年貢米の確保
喫煙の広まりにより、現金収入を得られて実入りのよい「たばこ」を栽培する農家が増加。年貢米の確保に不安を覚えた幕府は、農家による「たばこ」の栽培を禁じた
photo02 寛永9(1632)年に、島根県の石見銀山奉行所に提出された 「たばこ」税に関する古文書。
  しかし、幕府による度重なる禁令にも関わらず、「たばこ」を楽しむ人々は増え続け、徳川3代将軍・家光の代となる寛永年間(1624〜1645年)に入ると、「たばこ」に課税して収入を得る藩も現れ、「たばこ」の耕作は日本各地へ広まっていきます。やがて、禁令は形骸化し、徳川綱吉が5代将軍を務めた元禄年間(1688〜1703年)頃を境に、新たなお触れは出されなくなりました。
  こうして「たばこ」は庶民を中心に嗜好品として親しまれながら、独自の文化を形作っていくこととなったのです。
曲水の宴

「曲水の宴」

作者不明
寛永(1624〜1645年)頃

男女遊楽図

「男女遊楽図<部分>」

作者不明
元和〜寛永(1615〜1645年)頃