ミスなく安心感を与えられるようなプレーを目指す

小学校で培われた守備力

バレーボールを始めたきっかけは、幼稚園の時に姉が通っていた石田JVC(神奈川県伊勢原市)というクラブチームの体験に連れて行ってもらったことです。
そのクラブチームで初めてサーブを打たせてもらい、初サーブが入ったことに達成感を得てハマってしまい、小学校に入学してから正式に通い始めました。

クラブチームは初心者と経験者の2つのグループに分かれていて、初心者グループは楽しみながらバレーボールの基礎を覚えていくという方針で、自分も1~2年生までは初心者グループの中でわいわい楽しく練習していました。3年生からはレギュラーに選ばれ、経験者グループに編入して真剣にバレーボールに打ち込むようになりました。
4年生になると、監督からスパイクを打つ際の「エースの心得」や「バレーボールはリズムのスポーツ」など技術面だけではなく、精神面についても指導していただきました。
初心者グループにいた1~2年生の時は厳しかった記憶はないですが、経験者グループに移ってレフトスパイカーのポジションを任されることが多くなった4年生の頃から指導内容も徐々に厳しくなっていったのを覚えています。
5年生の時に全国大会にも出場ができ、4年生から6年生の間は自身が成長できた大切な3年間でした。

小学校の時点で身長が高い方だったのですが、所属していたクラブチームでは身長に関係なくレシーブ中心の練習だったので、今でも自分の強みである守備力の高さはこの時に培われたものだと思います。
もし、別のクラブチームに入っていてスパイクの練習が中心だったら、今の自分はなかったかもしれません。
今考えると小学校のクラブチームとしては、結構シビアでしたね(笑)。

2時間かけて強豪校に通学

小学校の時、何度も日本一に輝いている駿台学園中学校(東京都北区)の映像を観る機会があり、その映像に心を揺さぶられ、神奈川の家から東京の学校まで2時間くらいかけて通うことを決意しました。
朝6時の電車に乗って、帰りは22~23時くらいの電車で帰ってくる生活でしたが、その時はあまりハードだとは感じてませんでした。

チームの雰囲気は緊張がある感じでしたね。
入部した時は全日本中学校 バレーボール選手権大会で3連覇した後だったので、一つ一つのプレーに対しても、決められたことを実行する能力に対しても、常に結果を求められる環境でした。
練習自体は小学校のクラブ経験から、ある程度基礎は固まっていたので、中学校でのギャップは感じませんでした。小学校で思い切り楽しくプレーをしていたら、いつの間にか中学校のレベルになっていたという感じです。

ポジションは中学校からアウトサイドヒッターをやっていました。
ある程度スパイクも決まるようになっていたので常に全力で取り組むのではなく、自身のペースを乱さないように「力を抜くところは抜いて、決めるべきときは決める」とメリハリをつけて練習に取り組んでいました。他の選手たちは体力面などできつく感じるところがあったかもしれませんが、自分自身は練習がきついと感じたことはあまりなかったですね。

チームのメンバーに恵まれて全国大会制覇

中高一貫だったため、高校は駿台学園高等学校(東京都北区)へ進学しました。
中学校の頃と比べて、練習はもっと本格的になりました。
一つでもさぼったらプレーはうまくいかないし、一つ一つのプレーを大事にしないと練習する意味がないことを実感しました。高校に入ってからはネットの高さが13センチ上がって43センチになりましたが、自分の身長はあまり伸びず、今までと同じようにプレーしていたら通用しないので、その点で壁を感じましたね。
一番きつかった練習はランニングトレーニングで、土手の坂道や階段があるコースを何分以内に何周するというノルマがあり、ランニングは必要なトレーニングだと頭ではわかっていてもつらかったです(笑)。
練習にはある程度ついていくことはできましたが、自分の弱点でもある詰めの甘さが結果で見えてきた部分はありました。

高校で出場した大会の結果は、1年生でインターハイベスト16と春高ベスト8で、2年生でインターハイ準優勝、国体はベスト16、春高は3位。そして、3年生の時にインターハイ、国体、春高、全ての大会で優勝することができました。
チームメンバーに中学時代の全日本中学校大会ベスト4のうち、2校の選手がいて、一緒にプレーすることができたことが優勝できた要因だと思っています。本当に良いメンバーに恵まれました。
大会の結果をまとめてお話ししましたが、その中でも思い出に残っている試合は春高の決勝です。対戦相手は公式戦で唯一ストレート負けをした東亜学園(東京都中野区)で、苦手意識を持ったまま試合に臨んでしまい、調子が出ないまま2セット目で選手交代となってしまいました。
コートから離れた時に監督から「こんな感じで終わっていいのか」と言われ、ベンチで待機している間は監督からの一言が頭からずっと離れず、このままで終わるのは悔しいと強く感じました。その後、監督に呼ばれて再びコートに戻るチャンスをもらった時に、全力で相手にぶつかってなんとか勝つことができました。

インターハイでは最優秀選手賞、春高では大会MVPを受賞することができましたがメンバー全員誰が受賞してもおかしくなかったと思ってます。たまたま自分が主将をやっていたから選ばれただけで、メンバーみんなのおかげでチームとして受賞できたのだと思っています。
主将を任されてはいましたが、リベロの土岐大陽選手がチームを回してくれたので、自分はプレーでチームを引っ張っていく役割でした。
主将という存在は試合中に指示を出したり、選手たちの動きに対して指摘をしたりと周りを引っ張らないといけないと思っていたので、気持ちとのギャップから少しつらいなと感じたこともありました。
コートの中での立ち振る舞いについても考え始めて、声掛けにしても言い方次第で相手の受け止め方が変わってくるので、下の学年に声掛けをする3年生の時が一番悩みましたね。

忘れられないインカレでの敗北

将来は消防士になることを考えていたので、この先バレーボールに本気で打ち込んでいくのかを悩んでいる状態で、大学への進学はあまり考えていませんでした。
そんな中、大学と練習試合をすることになり、その会場で筑波大学(茨城県つくば市)の監督に大学のバレーボール部にお誘いいただいたことで、バレーボールにもう一度真剣に打ち込んでみようと考え直し、筑波大学への進学を決意しました。

実際に入学してみるとイメージ通りに練習はきつかったのですが、そのきつい練習一つ一つにちゃんと意味があることがわかりました。きつい練習の中でも、高校の時に取り組んでいた練習方法を自分なりに応用できる部分もあったので、大学の練習でレベルの差はあまり感じませんでした。
部活では1年生が下積み、2年生は1年生を指導、3年生は2年生を管理し、4年生が統括するという強い組織を作るための構造ができていました。練習に関しては厳しめではありましたが、練習が終わると礼儀としての上下関係だけで、仲間たちと一緒にいる時間は楽しい時間の方が多かったと思います。

生活面では、一人暮らしをしていたので自炊もしていました。
特に朝ごはんに関してはきちんと食べることを意識していたので、栄養が偏らないようにコンビニに頼らず、1から作って食べていましたね。
夜はみんなで一緒に食べに行くこともあり、そこでバレーボールについて話し合ったりすることも多かったです。

1年生の時はスターティングメンバーの調子が悪いときの交代選手で試合に出場していて、2年生からスターティングメンバーとして試合に出場することができ、4年生の時には主将を任されました。
高校生の時に主将とはどうあるべきかをすごく悩み、日々葛藤をした経験があったので大学のバレーボール部に入ってからは、主将を任されていた先輩たちの立ち振る舞いや役割を観察していました。
観察しているうちに、自分が主将に選ばれた時のビジョンや役割がはっきり見えてきたので、4年生で実際に主将に選ばれた時に悩んだことはあまりなかったです。
高校の時は「このくらいやっておけばいいだろう」という甘い気持ちがありましたが、それは良くないと思い、大学では全員のお手本になれるように誰よりも練習をして、みんなの顔を見て声掛けするように意識していました。意識をしたことで、チームワークの部分が磨かれて、結果としてバレーボールとして大事なことを学ぶことができました。

自身として成長を感じていた4年生の時に新型コロナウイルスがどんどん広まって、緊急事態宣言から自粛期間に入ってしまいました。自粛期間中は体育館もトレーニング場も使えないので、自宅待機でバレーボールが全然できない日々がしばらく続きましたね。
このままではいけないと思い、自粛制限が緩和したタイミングで公園にみんなでちょっとだけ集まってグループ別にトレーニングをし、自分たちでメニューを考えて練習に取り組んでいました。
全日本インカレ(全日本バレーボール大学男女選手権大会)優勝を目標に練習していた中で春季リーグ、東日本インカレ、秋季リーグの3大会とも軒並み中止になってしまい、競合大学の実力もわからない状況で、モチベーションが下がった時期もありました。
中止が相次ぐ中、全日本インカレの開催が決定した時は嬉しかったです。

その全日本インカレの試合の中でもベスト4をかけた日本体育大学(東京都世田谷区)戦は悔しい思い出となったので今でも忘れられません。
試合中は勝つことしか考えていない状態で、1セットと2セットを大差で先制したとき、流れは完全に自分たちにきていたので「勝てる」と思い込んでしまい、チーム全体が緩んでしまったんですね。
その緩みを相手チームは見逃さずに戦術を変えてきて、変わった戦術に対応することができずに3~5セットと残りのセットを全部取られて逆転負けをする結果となりました。
試合の後、もっと対策の仕方があったのではないかと反省しましたが、「勝てる」と思い込んでしまったのも対策ができなかった大きな要因だと感じました。敗北からしばらくはバレーボールにも気が向かず、何も考えない時間が欲しかったのを覚えています。

その試合の相手チームに、同期の西村信選手がスターティングメンバーで出ていて、自分よりも身長が低いのにスパイクもレシーブもうまいし、敵ながら参考にしたいと思ったのを覚えていますね。

明るくて楽しい、でも強い

高校から大学に進学するときと同じで、もうちょっとバレーボールを続けられたらいいなと思っていたところにJTサンダーズ広島から声を掛けていただき「じゃあ、もう一回やってみよう。まだ続けてみよう」と決意することができました。ずっと続けてきたバレーボールを学生だけで終わるのではなく、真剣に本気でバレーボールだけに打ち込める環境で続けることができるというのは素直にうれしかったです。

入る前と入った後の印象は特に変わらず、「明るくて楽しいけど、強いチーム」という印象でしたし、それは入部して少し経った今も同じです。
歳が近い先輩の西知恕選手には、よくご飯に連れて行ってもらったりしています。

デビュー戦となった大分三好ヴァイセアドラー戦では、まだ内定選手という状態だったので12月のインカレ後から1カ月間は卒論制作中で、あまり練習ができていない中だったので試合に自信がなく、恐る恐るコートに立っていました。
一本一本の精度の高さが1点につながり、一本ミスしただけで負けにつながることが多いので、一本に対する意識の差というのを感じて試合中はずっと気が張りっぱなしでした。ただ、高校から大学に進学した時と同じで、最初はきついと感じていても厳しい環境に身を置き続けることで少しずつスピードや精度に慣れていきましたね。

目指すべき姿としては、自分はバレーボール選手として小柄ですが、サーブレシーブなどのディフェンス面でミスがなく、あいつに任せれば大丈夫とチームメンバーに安心感を与えられるプレーヤーになりたいと思ってます。
また、ディフェンスだけではなく、スパイクなどの攻撃にも自信があるので、アウトサイドヒッターとしてのパイプ攻撃、ジャンプサーブの使い分けも強みとして使って、JTサンダーズ広島の勝利に貢献していきたいと考えてます。
ファンの方々の応援が力になりますので、これからも応援よろしくお願いします。

  • 本記事は、2021年9月時点のインタビューに基づいたものです。