残りのバレーボール人生で成長するために決断したチャレンジ!

バレー仲間を集めてチームを結成!

9歳上の姉がバレーボールをやっていたので、試合の応援や練習の送り迎えについて行って、小さいときからよくボールを触っていました。本格的に習い始めたのは、小学校1年生の時です。その時は、女子チームしかバレーチームがなく、女子と同じチームで習っていたのですが、2年生のときに周りの友達に声をかけてメンバーを集め、さらに父親に監督になってもらい、男子バレーチームを作りました。父はバレーボール初心者だったものの、姉が習っているバレーボールを見て勉強してくれたみたいです。当初、自分が小学校のクラブを卒業するときに父も監督をやめようと思っていたらしいのですが、周りの保護者からぜひ続けてほしいとお願いされて、現在でも監督を続けています。今では父のやりがいになっているようです(笑)。
素人の父の指導ではありましたが、運動神経が良いメンバーが集まっていたこともあり、県大会で2位、九州大会では優勝するなどそこそこの成績を収めることができました。
当時は学校が終わったらすぐバレーボールをするという生活で、他に遊びたいと思うより、バレーをすることが当たり前の毎日でした。

バレーボール人生が変わった瞬間

地元の中学校に進学し、そこのバレーボール部に入部しました。厳しい先生からの指導と、背の高い生徒が集まっていて、中学2年生の時に全国3位、3年生の時に2位になることができました。そういった好成績を収めることができたからか、都道府県選抜の長崎県代表に選ばれ、そこで全国優勝をすることができました。またこの時は、公式の大会では初めてセッターで出た試合でもあり、さらに個人賞も獲得することができました。自分でも自信がついた大会でしたね。小学生まではどこか遊びの延長というような部分もありましたが、これをきっかけに次の進路を選ぶにあたっても注目してもらうことができたのではないかと思います。本当にここが自分の人生のターニングポイントだったと思います。

中学時代はスパイカーだったので、エースでキャプテンを任されてはいましたが、今思うと未熟で自己中なキャプテンだったと思います。今でも当時のメンバーと話すと、「あの時は怖かった」と言われることもありました(笑)。当時は自分でスパイクも決めてプレーで引っ張れてはいましたが、ちゃんと周りを見たり、チームメンバーへの気遣いとかはできていなかったかなと反省です。

文武両道の中で悔しい思いをした高校時代

近所の佐世保南高等学校に進学しました。バレーボールが強かったことと、中学時代のメンバーもそのまま進学したので、周りからは結構期待されていたみたいです。進学校でもあり文武両道を掲げている校風でもあったので、練習時間も限られていて、思ったような結果をだすことはできませんでした。中学校時代は勝てていた相手に、高校生になって対戦してみると相手の体もできてきて、通用しなくなってきたなとか、悔しい思いをすることの方が多かったです。強豪校に比べて練習が足りていなかったと思うこともありましたね。

憧れていた大学へ進学、人間的にも成長できた

小さいころからバレー雑誌で見ていた筑波大学のバレーボール部に憧れを持っていました。他にもいくつか声をかけてくれた大学はあったのですが、筑波大学から声がかかった時点ですぐ返事をしました。両親としても国立大学ですし、教員免許も取れるということで大賛成してくれましたね。
憧れていた筑波大学ではありましたが、入ってみると大変なことも多かったです。上下関係は厳しいですし、練習も本当につらくて(笑)。特に下級生のころは、練習の準備から片付けなど寝る時間を削りながらもやらなくてはいけない仕事も多かったのでキツかったですね。

入部当初は少し試合に出させてもらうこともありましたが、そのあとまた出られなくなって、本格的に試合に出られるようになったのは3年生くらいからです。将来Vリーグに行きたいと思っていたのですが、周りのレベルも高く、このままではいけないかもしれないと危機感を持ちました。このときからバレーボールに対する意識が変わりました。試合に出られない人の気持ちや周りへの声のかけ方、セッターとしてアタッカーとの信頼関係の築き方などちゃんと考えるようになり、人間的にも成長することができたきっかけだったと思います。もしここで腐っていたら、今まで続けてこられていないかもしれません。ここを乗り越えたことが今の糧になっていると感じます。

筑波大学はインターン練習生制度というのがあり、V2に所属するつくばユナイテッドSunGAIAさんと一緒に試合をする機会がありました。大学生は12月に全日本インカレが終わるとそのあとしばらく大会がないので、その期間にVリーグのリーグ戦につくばユナイテッドの選手として試合に何名か出させていただいていました。そのため、大学生の時からV2の試合に出場しV2の優勝など、本当に良い経験をさせてもらっていたと思います。

またこの時期は、ユニバーシアードやアンダー世代の代表に選ばれ、いくつか国際大会も経験しました。しかしそこでは控えのセッターだったので、大会に行っても試合に出ることはできていませんでした。その時の悔しさをちゃんとチームやV2の試合で還元できていたように思います。

大学バレー、つくばユナイテッド、アンダー世代の代表などいろいろなチームや環境でできたことが糧になっているのかなと思います。本当に大学時代はバレー漬けの毎日でした。バレー以外の勉強や遊びが全然できなかったので、それは心残りではありますが、Vリーガーになることができたので、結果オーライと思うようにしています。

Vリーガーとしての意識の変化

いくつか実業団から声をかけていただき、はやくに声をかけていただいたウルフドッグス名古屋に入部しました。ちょうど外国人監督が就任された時で、今までとは違う文化やバレーボールの経験をされている方の下で指導を受けてみたいという気持ちもありました。

最初の3年くらいは全然何もうまくいかず、悔しい経験の方が多かったのですが、トミー(トミー・ティリカイネン)監督がきてから意識が変わりました。まず英語を勉強して、監督に言いたいことがあったらちゃんと自分の言葉で伝えられるようにしましたし、生活習慣も見直して、試合前の準備として体を整えたり、食事や睡眠などにも気を使うようになりました。また練習の中ではしっかりスパイカーと細部まで合わせるようにコミュニケーションを密にとるようにしました。そういったことを一つ一つ意識するようになって、だんだんとチャンスをもらえるようになったと思います。

WD名古屋には9シーズン在籍しました。その最後の大会である2023年の黒鷲旗は自分にとってとても印象深い試合です。その時退部を考えていたので、このチームでできる最後の試合ということもありますが、次のチームを探すため自分をアピールしなければならない大会でもありました。もしかしたらバレーを続けることができないかもしれないと不安もあった中、最終的には優勝という最高の結果になりました。その数日後にオファーもいただいて結果だけではなく本当にいろいろな思いが詰まった大会でしたね。

自分の成長のためにした決断

年齢を考えると将来、あと何年バレーボールを続けるかと考えた時に、もうそこまで長くはないと思うようになりました。そんな中で、残りのバレーボール人生で自分を成長させてくれる選択は何かを考えるようになりました。本当にWD名古屋に対してネガティブな気持ちは全くなくて、前のチームに残る道ももちろんあったのですが、新しい環境でやれたらよりチャレンジングで自分の成長につながるかなと思いました。もちろん環境を変えることにリスクはありますが、家族の後押しもあってその決断をしました。この決断は簡単じゃなかったです。
いくつかオファーをいただき、これからもV1に所属しているタイトルを狙えるチームを希望していたこともあり、広島サンダーズを選びました。
何人か代表などで一緒にやったことがある人はいたのですが、ほとんどが初めてだったこともあり、自分は受け入れてもらえるかと少し不安なところもありました。でも実際みんなとてもウェルカムという感じだったので、とても安心しました(笑)。

1試合でも多く勝ってファンのみなさんと喜びを分かち合いたい

今の目標は、2つあります。1つはセッターとしてしっかりクオリティの高いパフォーマンスを出すこと。素晴らしいスパイカーがいるので、それぞれの能力を最大限に引き出せれば、必ずいい結果がついてくると思っています。
もう一つは、チームの中で年齢の高い方にいるので、入って1年目ということは関係なく、うまくいかない難しい局面で自分がどう働きかければチームが上向くかを考えて、しっかりアクションを取っていきたいです。

広島サンダーズの魅力は広島という地域に根付いていて、地域から応援されているなと感じるところです。その分、1試合でも多く勝ってファンのみなさんと喜びを分かち合いたいですし、最後はタイトルを取っていい報告をみなさんにしたいと思います。

  • 本記事は、2023年9月時点のインタビューに基づいたものです。