気付いたらバレーボール一本に絞っていました
バレーボールは4歳上のお姉ちゃんがやっていたので、その練習によく付いて行ってました。お母さんが言うには、「お姉ちゃんがバレーボールしているのになんで自分はさせてくれないんだ」って言っていたらしいです。
本格的にバレーボールを始めたのは小学3年生のときです。そのころは他に学習塾やスイミングスクールにも行っていました。あと、音楽一家だったのでピアノも習っていたんですけど、気付いたらバレーボール一本に絞っていました。バレーボールを続けた理由は、多分好きだったからだと思います。ずっと続けていきたいなと。始めたころから楽しかったです。
始めたころのポジションはレシーバーをしていて、小学4年生のころからセッターを始めました。その後は小学6年生までずっとセッターをやっていました。時々打ちたい気持ちになったりもしたので、たまにスパイカーもやっていたのですが、小学生のときの監督にずっと「お前はセッターがいいぞ」って言われ続けたのもあって、小学生時代はずっとセッターをしていたんですよ。
でも、今思えば、小学校でセッターをしていて良かったなと思います。もともとオーバーハンドパスは得意でした。セッターだったらトスにも生かすことができるし、プレーの幅も広がったと思います。当時の成績は、福岡県はレベルが高いので県大会ベスト8が最高だったと思います。
自分以外初心者ばかりでした
住んでいた地域はバレーボールが盛んではなかったです。でも、通った中学校にはバレーボールを専門的に教えてくれる先生がいたんです。ポジションは中学1年生のときはセッター、途中からスパイカーを始めて、中学2年生のときはツーセッターだったのでセッター兼スパイカーをしていました。
同級生の部員は自分以外初心者ばかりでした。メンバーも多彩で、それぞれ小学校のときにやっていたスポーツが、セッターはソフトボールでキャッチャー、センターがバスケットボール、リベロがテニス。他の部員もドッジボールとか。あと一人、通称“ぶーちゃん”と呼ばれていた部員がいたんですけど、彼には小学生の時点で相撲部屋からオファーが来ていました。
このメンバーで何と市大会を優勝。さらに県大会は準優勝ですよ! このメンバーで、しかもレベルの高い福岡県で。すごくないですか!? 県大会の準決勝では自分たちの代で小学校の全国大会2位になったメンバーが大勢いる遠賀中(遠賀中学校/福岡県遠賀郡)にも勝ってしまいました。
県大会で準優勝だったので九州大会にも出場しました。予選リーグでは九州の新人大会で優勝した鹿児島の中学校と対戦したんですけど、ストレートで勝っちゃったんですよ。九州大会1位に! 初出場の学校がですよ。でも、その後行われた決勝トーナメントでは1回戦でぽろっと負けてしまいました(笑)。
中学校時代は部活以外にクラブチームにも入っていました。クラブチームでは中学1年生のときに、全国大会3位。中学2年生のときは全国大会べスト8くらいで負けて、中学3年生のときは全国大会で優勝しました。あと、JOC(全国都道府県対抗中学バレーボール大会)の代表にも2年生から入って3年生のときに優勝しました。その後、中学の日本代表として日韓交流戦にも出場させてもらいました。
中学時代の練習は厳しかったですけど、いろいろと経験を積んで、結果がついてきたから、頑張れたんですかね。
東福岡高校を選んで良かった
高校は東福岡高校(福岡県福岡市)に進みました。他校からもオファーはたくさん届きましたが、東福岡高校を選んで良かったですね。吉岡(光大)さんのいた都城工(都城工業高校/宮崎県都城市)が優勝した2009年の春高バレーで東福岡が準優勝したんです。その試合を観ていて、行きたいなと思いました。中学時代から練習で学校には訪れていて、練習の雰囲気も好きでした。
高校での3年間はすごくいろいろなことがありました! このインタビューでは話しきれないくらい。
入部直後からいきなりエースを任されました。責任が大きいので藤元(聡一)先生(東福岡高校バレーボール部監督)にめちゃめちゃ言われました。
練習はとてもしんどかったです。心を折りに来るんですよ、藤元先生は。心を折りに来るところを自分たちはめげずに頑張らなきゃいけないんですけど、結局折れるんですよね(笑)。
他の高校の練習が分からないので、練習量については多いかどうかは分からないですけど、練習の質に対するこだわりはすごかったと思います。
高校時代の印象に残っている試合は、一つには決められないですね。試合ごとにエピソードがあるんですよ。
高校2年生でインターハイを優勝したときは、初戦から調子が上がらなくて、実は予選のグループ戦で創造学園(創造学園高校/長野県松本市)にフルセットで負けてしまったんです。それでも敗者復活戦で勝って決勝トーナメントに上がることができました。決勝トーナメントに入ると調子が徐々に上がって、決勝では東洋(東洋高校/東京都千代田区)を破って優勝。この優勝が東福岡のバレーボール部にとって、初の日本一でした。
でも、泣かなかったですね。2年生のときは高校3冠を達成したんですけど、1回も泣かなかったです。
唯一泣いたのは高校最後の春高バレー優勝のときですね。これまでで一番うれしかったです。
自分はどの大会のときもそうなんですけど、県大会のときはスパイクが全然決まらないんですよ。飛べないんです。でも全国大会になると、飛ぶ高さが全然違うんですよ。これはコーチにもよく言われました。
大舞台が好きなんです。楽しいです、大舞台は。春高バレーのセンターコートもやりやすいし、めっちゃ決まるし、プレーしていて楽しかったです!
「石川(祐希)じゃなくて金子になればいいじゃないか」
試合以外で印象に残っていることは、高校3年生の春高バレー前の猫田体育館で行った合宿での出来事ですね。この年はインターハイで優勝候補といわれながらベスト8で敗退、国体では優勝して、いざ春高バレーという気持ちになっていたんですが、合宿の練習ゲームで全然勝てなかったんですよ。あまりにも勝てないので、ぶっちゃけ春高バレーはベスト4か3位になれればいい方だろうと逆に開き直っていました。すると、その雰囲気を感じ取った藤元先生がサブコートに部員を集めて、「聖輝お前、何やその雰囲気とかオーラは。お前、勝つ気ないんか?」と怒られました。
あと、実は高校2年生のときから藤元先生には「石川祐希(中央大学)になれ」と言われ続けていたんです。でも、その場では「お前は石川(祐希)じゃなくて金子になればいいじゃないか。石川にはなれなかったんだから、金子でいいじゃないか、お前らしくやればいいじゃないか」と泣きながら藤元先生に言われたことをとても覚えています。
このことを、この前、藤元先生に話したら「ああ、あれは一生忘れねえな」と言われました。その出来事がきっかけで、自分だけではなくチームが変わりました。自分もベスト4でいいじゃないかって開き直っていたんですが、「だめだ、優勝しかない」と思うようになりました。
世界一のセッターになりたい
高校卒業後の次のステージでは、スパイカーからセッターに転向して勝負することを決めていました。
高校時代もユースの代表ではセッターをして、高校ではスパイカーをしていたんですよ。セッターとして出場した「第10回 アジアユース選手権大会」は準優勝。「第14回 世界ユース男子選手権大会」は15位でした。すでに高校では日本一も経験していたので、周りのいろいろな方からも次は世界だ、世界一になれと結構言われました。実際、世界大会に出てみると、こいつらに勝ちてえって思うんですよね。何で負けたんだと。「第10回 アジアユース選手権大会」も決勝でイランに負けた後、号泣したんですよ。
基本、勝ったときに涙は出ないんですよ。負けると悔しいから、こみ上げてくるんですよ。小さいころからめちゃめちゃ負けず嫌いで、負けるともう暴れてましたね。世界の舞台を経験したことで世界一のセッターになりたいなって思うようになり、もうこれからはセッターだと決意して、スパイカーとして最後の春高バレーに挑み、2連覇を達成することができました。
高いレベルでプレーした方がいい
高校卒業後は大学に行く予定でした。高校2年生の終わりに藤元先生と話をしたときは「お前、東京五輪に出たいんだろ」と言われて、「出たいです」と答えたら、藤元先生が「それなら実業団への進路を考えてるから」と。そのときは「あ、はい」と言ってそれで終ったんですけど、そのころから実業団も選択肢に入るようになりました。ちゃんと話をもらったのは高校3年生の4月くらいですね。それから藤元先生も候補を絞ってくれて最終的な候補はJTサンダーズと関東の大学になりました。
東京五輪出場を目標に考えると、大学に入っていたら卒業年の8月がもう五輪なんですよ。セッターとしてそれだと厳しいというか、藤元先生からも「ほぼ可能性はない」と言われました。もちろん、実業団に進んでも可能性が高くなるとは言えないですけど、そこは自分次第、自分の頑張り次第だと言われていて、それだったら高いレベルでプレーした方がいいじゃないかって思って、迷いなくJTサンダーズに行くしかないなと思いました。高校3年生の「第64回 黒鷲旗」のときには決まっていました。
JTサンダーズに入る前はチームについてよく知らなかったんです。ちょうど高校3年生のときにJTサンダーズがV・プレミアリーグで優勝したんですけど、優勝してるから強い、すごいなって思ってたんですよ。でも、初優勝だということはそのとき知りました。そこからチームを意識して見るようになりましたが、当時はJTと言ったら竹下(佳江)さん(元JTマーヴェラス)しか分からなかったですね。男子の選手は全然知らなかったです。
でも実際に入ってみると、チームの雰囲気は明るくて先輩は優しいし、寮ではいい生活をさせてもらっています。
セッターは縁の下の力持ち
今の目標はやっぱり東京五輪です。1年1年が勝負になってくると思います。与えられたチャンスをしっかり生かして、自分の持っているものを全て出して戦っていきたいですね。
セッターとしてトスはもっともっと練習しないといけないんですけど、やっぱりトスは気持ちで託す、最終的にはそこだと思っています。ブロックを振り切ることも大事だと思うんですけど、一番はスパイカーの打ち易い場所へ気持ちで託す。そのことは藤元先生にもずっと言われてきました。
あと、セッターだからといってブロックが苦手だと思われるのが嫌なんですよ。だからブロックもできなきゃいけないですし、身長が高いからレシーブができないとも言われたくないので、全てのプレーで一流になりたいと思っています。
セッターは一番つらいポジションだと思うんです。試合に勝てばスパイカーのおかげ、負ければセッターのせいと言われるので。自分であまり点は取れないですけど、スパイカーが決めてくれると自分もうれしいですね。本当にセッターは縁の下の力持ちなんです。大変なポジションだと思います。
プレーももちろんなんですけど、精神的にもチームを安心させろってずっと藤元先生に言われてきました。
セッターが不安な立ち居振る舞いをしたら、みんな不安になるじゃないですか。自分が不安な気持ちでトスを上げると、みんなも不安になってしまうので、精神的にもみんなの核となって安心させられる存在になっていきたいっていうのはありますね。
答えがないのが答えなんです
(金子選手にとってバレーボールとは)―― 答えとして一番多いのは“人生”とかでしょ? でも自分はみんなと一緒なのが嫌なんです。何でバレーボールをしているんでしょうね。それを聞かれると難しいです、本当に。だけど好きだからしているんですよね。時には辞めたくなるけど、好きだからしているんでしょうね、ずっと。好きだから辞められないです、バレーボールは。なんか面白いっすよね。
バレーボールとは……この世に存在しない言葉なんですよ。バレーボールはずっと一緒に歩んできたものなので。でも、“人生”という言葉でまとめたくはないです。だってまだ人生19年くらいですから。答えがないのが答えなんです、多分。
引退するときに答えが出るかもしれないですね。今はまだ目指すところがあるので、そこを目指してやっていますし、まだ目標に到達してもいません。まだまだ途中ですよ。40歳くらいまで続けようかなと思っていますから。そう考えるとまだまだですよ。
- 本記事は2016年9月時点のインタビューに基づいたものです。