誰よりも勝ちたいと強く思っている選手でありたい

ハードな練習も苦ではなかった

バレーボールを始めたのは、5歳の時に3つ上の兄が通っていた地元のクラブチームに連れて行ってもらったことがきっかけで、気づいたらそのクラブチームに入って練習をするようになっていました。
ルールはある程度しかわかっていなかったので、まずは周りの人たちのプレーを真似するところから始めていたような気がします。

小学校に入ってからは、学校が終わると友達と少しだけ遊んでから夜に練習に行く生活を送っていました。練習は嫌いじゃなかったし、苦ではなかったのですが、周りの子たちのテレビの話題についていけなかったのは少し辛かったです(笑)。

クラブチームの人数は全体で10人前後と多くはなかったのですが、「県大会で優勝しよう」「全国大会に出よう」という高い目標を持ち、まじめに練習に取り組んでいるチームだったので、上級生になるにつれて練習がハードになった記憶があります。
土日は遠征、平日は週4日で練習をしていたのでほぼ毎日バレーボールをするようになり、練習メニュー自体がハードになったというよりも、練習量が増えたことでハードになったという感じです。

試合には2~3年生くらいから出ていました。3年生の時には、すでに上級生と同じくらい体が大きかったのでレシーバーとして後ろを任されるだけでなく、最初からスパイカーを任されていました。
スターティングメンバーで試合に出場することも多かったですが、周りへの声かけがあまり得意ではなかったのでひたすらスパイクを打ちこんでいたら、メンバーから頼られるようになって、多くボールをまわしてくれるようになりました。

県内の大会では優勝か準優勝になることが多いチームでしたが、全国大会進出が決まる大会だけはなぜか毎回負けてしまい、結局全国大会には一回も出場することができなかったですね。

JOCで体感した新しい世界

中学校からはクラブチームを卒業して、バレーボール部に入部しました。
部活といっても部員は全体で10人前後と小さい部活でした。小学校の頃は上下関係もなかったのに、中学に入ると当時クラブチームで一緒にやっていた年上の人にも敬語を使うようになり、今までとは違う環境になったことを実感しました。

小学校3~4年生の頃からはずっとスパイカーでバシバシとアタックを打っていましたが、中学校に入ってからはネットの高さが30センチ上がり、今までのように打てなくなりました。
そういった環境の変化もあり、中学1年生の時に自分の中のやる気スイッチがオフになってしまった感覚がありました。やる気オフの間、バスケットボールのリングにジャンプで届くようになりたいという別の目標を見つけて、遊び感覚で毎日ジャンプをしていたら1年生の終わりくらいにはリングに届くようになりましたね。
毎日ジャンプをしていた影響か身長が伸びて、2年生からはスパイクが周りの人よりも決まるようになって、そこからバレーボールが再び面白く感じるようになりました。その後も、身長は伸び続けて、中学生の間に20センチくらい伸びました。

2~3年生の時にJOC(JOCジュニアオリンピックカップ)の新潟県選抜メンバーに選ばれましたが、初めて選ばれた2年生の時はさすがにびっくりしましたね。
12人中に同級生は1人だけで、それ以外は全員年上だったので当然レベルも高いし、毎週県外のチームと試合をするので、新しい世界に入ったような新鮮な感覚で楽しかったです。
「この県には通用するんだな、この県はこんなに強いんだな」と感じながら、毎回試合に臨んでました。
試合で緊張したことはなく、強いチームが多くて「あとどれくらい試合ができるんだろう」と力試しをしているようでわくわくしているところはありました。

自分がとことん決めるしかない

中学卒業後は3つ上の兄が通っていた新潟県立上越総合技術高等学校(新潟県上越市)に自分も入れ替わりで入学しました。
もともと県で1位、2位を争う強豪校で家からも近く、通っていた中学校の目の前だったので中学生の時から練習に参加させていただき、その流れで進学したというのもあります。

練習は一つ一つがハードになったというわけではないのですが、ほぼオフがなかったのでバレーボールに集中する時間が必然的に長くなりました。
人数は全体で16人くらいいたので、チーム内対戦もできるようになりました。中学の時はバレーボール部以外を含めての学内対戦だったので、高校でのチーム内対戦はすごく楽しかったです。

すぐにエースになってやるという気持ちで入部して、実際に1年からスターティングメンバーで試合に出ていたので、レベル差を感じることは特にありませんでした。
2年生の時にはポジションがアウトサイドヒッターからオポジットに変わったことで、サーブレシーブもしなくなり、決めなきゃ仕事にならない、自分がとことん決めるしかないと以前よりも強く感じるようになりましたね。
アタック本数も増えて練習試合でも1日200本を超える日もありましたし、そういう状況の中で自分を高められましたし、成長もできたと思います。
3年生では主将を任されましたが特別みんなに声を掛けたりしたわけではなく、メリハリを意識して、練習中は厳しく言っても練習が終わったら何事もなかったかのようにメンバーみんなと和気藹々と話していました。

今でも記憶に残っているのは1年生の時の3連覇がかかっている春高予選。敗退した瞬間に、感情を表に出さないタイプだった当時の3年生の先輩たちが泣いている姿を目の当たりにして、事の重大さに気づいて勝てた試合に負けてしまったんだなという悔しさが強く残りました。

初めての国際大会で見つけた課題点

毎年3月くらいに県外から多数のチームが集まる地元の大きな大会が開催されるのですが、1年生の時に当時のTeam COREの酒井新悟監督(久光スプリングス)がたまたま見に来ていて、そこから大学生が参加するような合宿に2年生の時に呼ばれました。
その合宿に参加した後の2年生の春高でベスト16に選ばれたことで、名前が一気に知られて、3年生の時にTeam COREに選出されました。

Team CORE アジアジュニア選手権が自身としては初めての国際大会で、海外の選手と試合ができたことはとても新鮮でした。
今までは自分より背の高い選手がほとんどいなかったのでスパイクも通っていたのですが、海外選手の高いブロックを経験してスパイクの打ち方などはもっと練習が必要だなと感じました。
Team COREメンバーは、アジアユースや世界ユースで既に国際大会に慣れている人たちばかりだったので、すごく頼もしかったです(笑)。
自分は全部が初体験だったので、慣れている選手にうまく合わせていましたね。
この経験から自信がついたとともに課題点が見つかり、現状に満足できなかったことで大学でもバレーボールを続けたいと強く思うようになりました。

圧倒された大学の雰囲気

高校2年の時に多くの大学バレーボール部から声を掛けていただいていました。
その中でもバレーボールをするだけではなく、身体のことも学ぶことができて、教員免許が取れる体育学部がある点から、東海大学(東京都渋谷区)に進学することを決めました。
V.LEAGUE選手の排出が一番多く、当時の日本代表も半分くらい東海大学出身だったというのも理由の一つとしてありました。

大学に入り、実際に練習がはじまってみると今までとのギャップに驚きました。
高校までは自分の身内や小学校の頃からの仲間と一緒にやっていたのに対して、大学では全国から集まったバレーボールが上手い人しかいない環境になって、すごく衝撃を受けました。
大学生の体育会というと、ちょっとおちゃらけたイメージもあったのですが、みんなめちゃくちゃ練習をして、声もすごく出していたので雰囲気的にも圧倒されましたね。
ボール拾いの仕方ひとつにしても、声の出し方ひとつにしても高校とは全く違かったので1から取り組むことが多く、すごくきつかったなーという感じです(笑)。

先輩たちはパワーも体つきも全然違いました。
1年生の時から試合には出させてもらっていましたし、体格も線が細いタイプではなかったのですが、先輩たちと比べてまだ力不足なのかなと感じることもありました。
先輩の中に小野寺さん(小野寺太志選手)がいて、主将を任されていました。当時から口数も多いタイプではなく、慌てているところをあまり見たことがないです。誰よりもバレーボールが上手くて、良い意味で目立つ先輩でした。

練習は高校とは比べものにならないほどハードになり、高校の練習は楽だったなと思うくらいでした。
メニューはひたすらに基礎練習で、練習をしながら「徹底的に基礎練習をやるんだな」と思いました。高校時代は大会の数が多いことから実践が多かったのですが、大学では他のチームとの練習試合もあまりなかったのも大きいかもしれません。

目標だった日本代表に選出

小さい頃から日本代表に選ばれることは大きな目標の一つでしたが、大学1年の時に龍神NIPPON(男子日本代表)に選出されて、いきなり目標に近づきすぎて実感が湧きませんでした。ただ、初めて選出された2017年の時は登録だけで合宿には一回も参加できませんでした。
翌年の2018年には世界選手権組とアジア大会組の2チームに分かれて、アジア大会組の先行合宿にはずっと行っていましたが、実力不足で世界選手権メンバーに選ばれず、その悔しさを晴らすように大学の練習に全力で打ち込みました。
その後、2020年のU-23で初めて国際大会の場で主将として試合に出場できたのは、自分の中ですごく貴重な体験になりました。
大学3~4年生の先輩たちがいる中で自分が主将を任されたので、これはチームを引っ張ることを求められているのかなと思って必死にやりました。
言葉で引っ張っていくのは別の選手に任せ、自分はチームを勝ちに近づけられるように行動で引っ張っていけるように頑張りましたね。

より競争が熾烈になる中で頑張ってみたい

広島サンダーズに入部したきっかけは、大学の小澤翔監督もJT出身の選手で優勝経験もある方だったので、その監督への憧れと超えたいという気持ちがあったことです。
また、大学を卒業したらオポジットをやめようと考えていたところ、広島サンダーズからアウトサイドヒッターを任せたいという話をもらっていたことと、チームにアジア枠があるので、より競争が熾烈になる中で頑張ってみたいと思ったのも大きいです。
大学生という立場からVリーグ選手という立場に変わって、バレーボールへの向き合い方は変わりましたね。
バレーボールが仕事になって、より一層バレーボールに向き合う時間が長くなったので、プロ意識も強くなりました。

Vリーグ選手として「誰よりも勝ちたいと強く思っている選手」でありたいと思っているし、そう思っている選手がチームに一人はいたほうがいいと考えてます。
また、オフェンスで期待されているので、攻撃力の部分でチームを引っ張っていきたいですね。
まだまだ課題は山積みですが、これからどんどん成長してチームの勝利に貢献し、チームを引っ張っていける選手になりたいと思うので、応援よろしくお願いします。

  • 本記事は、2021年9月時点のインタビューに基づいたものです。