小学校2年生の時からセッター一筋
バレーボールは小学校1年生から始めました。幼稚園の頃から姉が通っていたクラブチームに遊びに行き、ボール遊び程度は既に行っていたので、その頃からバレーボールはとても好きでした。母もママさんバレーをやっていて、全日本の試合などはテレビで観戦していましたから、ある程度ルールも理解していました。
実は幼稚園の頃にサッカーも習っていましたが、バレーボールの方が面白いなと思いながらやっていました(笑)。
クラブチームには小学校入学と同時にそのまま入部しました。同時に空手も習い始めたので、バレーボールが週6日、残り1日が空手の稽古という生活を6年間やり通しました。
入部当初は体格の差もあり、もちろんスタメンを取ることはできませんでしたが、全員で7人ほどしかいないようなチームだったので、1年生の時からレシーバーで出場していました。
2年生になった時、6年生が一気に抜けてしまったこともあって、本格的に出場するようになりました。ポジションはその頃からセッター一筋です。
ボールに全く恐怖心がなかったので、とにかくボールに触ることを考え、相手のスパイクを自分から当たりにいっていました。そうしたことが意外と技術力の向上にもつながったと思います。
入部したクラブチームは当時県大会ベスト8程度でしたが、これから強くなる兆しはありました。
後に同学年の子が入部してきてくれたこともあって、6年生の時には県大会はすべて優勝、関東大会と全国大会はともに3位という結果を残すことができました。
そうした強豪チームだったので、練習はとても厳しく、今思えば体力的にもかなりきつかったです。
“その日はレシーブだけひたすら練習する”といった反復練習を行った後、そこからランニングや縄跳びなど体力作りのトレーニングをして1日が終わっていました。
今振り返ると、小学生の頃は技術や体力が未完成だったので、非常に良い練習メニューだったと思います。
練習会場は遠方だったので、家族に車で送迎してもらっていました。家族が来ることができない場合はチームメイトの親御さんに家まで送ってもらいましたね。当時の保護者の方々には本当に感謝しています。
どうすれば自分を目立たなくしてスパイカーが輝くかを考えられるようになった
中学校はクラブチームではなく、部活動に入りました。強豪校で何年も県大会で負けたことのないようなところでした。
3学年合わせて20人程度で経験者が大半でしたが、指導していただいた先生の教え方が非常に上手だったので、中学から始めた子も凄い成長スピードで試合に出場していました。
1年生の時は3年生がメインのチームだったので、ピンチサーバーで出場できる程度でしたが、2年生からは出場機会が増えました。3年生にもセッターはいましたが、「自分は試合に出たい」という強い意欲がありましたし、出場するためにはどうすればいいかを考えながら練習にも取り組んでいました。いつでも出場できる準備はできていましたし、結果を残す自信はありました。
印象に残っているのは、各選手がそれぞれの場所から攻撃するための”コンビ練習”です。うちの中学校は速い攻撃が売りで、速くする分、精度を高めなきゃいけないというのがあったので、特にコンビ練習にはとても力を入れていました。
先生は練習にも厳しかったのですが、セッター出身ということもあり、特にセッターには厳しかったですね。
練習中は逐一なぜそこにトスを上げたか聞かれましたし、スパイカーがミスをした時はセッターもすごく注意されました。「勝った試合はスパイカーのおかげで、負けた試合はセッターのせい」とよく言われましたが、先生もかつてそう言われてきたのだろうと思いつつも、確かにその通りだなと腑に落ちました。
そう思ってからは、もともと大変だった練習もより一層頑張ろうと思いましたし、勝つためにはどういったプレーをすれば良いのか考えるようにもなりました。
また、最初の頃は自分が目立ちたいというのがどうしても出ていましたが、どうすれば自分を目立たなくしてスパイカーが輝くかを考えられるようになったことも良かったと思います。
全国大会には1、3年生の時に出場しています。
3年生の時は、全国大会で4連覇をしたこともある東京の学校と全国大会の出場をかけた試合をすることになったのですが、実はその1週間前に右手を骨折してしまって…。絶望的だなと思いましたが、お医者さんにどうしても出場したいと頼み込んで、テーピングをぐるぐる巻きにして試合に出場しました。
結果は何とか勝利、無事全国大会に出場することができました。そして全国大会もベスト4まで進出することができ、今までのバレーボール人生の中で、3つのうちの1つに入るぐらい印象に残っていますね。
その後、JOC(JOCジュニアオリンピックカップ)の埼玉県選抜メンバーに選出されました。1チームから選出される人数が限られているのですが、うちの学校には良い選手がたくさんいたので、その中から選出されるのが大変でした(笑)。
一緒にやりたいと思っていた他のチームの選手とプレーできるのが嬉しかったですし、また監督からもトス回しを任せていただき、自分がやりたいバレーボールをやらせていただいたので、非常に楽しかったです。
最後の最後で自分達がやりたいようなバレーボールがようやくできた
高校は東京都の高校からも誘われていましたが、その時「意地でも埼玉でバレーボールを続けたい」というのがあったので(笑)、県内の埼玉栄高等学校(埼玉県さいたま市)に進学しました。
実は先の東京都の高校はセッターだけいない状況でしたが、埼玉栄高校にはJOCで一緒にプレーした埼玉県選抜や同じ中学校のチームメイトも一緒に進学することになりましたし、結果的に栄に進学して正解だったと思います。
部員は30人程度でしたので、競争は激しかったです。ただいろんな学科のメンバーがいたので、練習にあまり参加できない部員はもちろん、バレーボールに対する目的やモチベーションにも差があったのが印象的でした。
高校3年間はインターハイ、国体、春高バレーすべてに出場することができましたが、初めての春高バレーでいきなりスタメン出場することができました。バレーボールをやっている学生から「夢の舞台」と言われるだけあって、とにかく緊張しました。ただそのせいか自分の思うようなプレーが全くできず、成す術もなく1回戦で創造学園高等学校(長野県松本市)に敗退してしまいました。自分のせいで負けたような試合でしたので、いい思い出はなかったですね。チームメイトに申し訳ないという気持ちが強く残りました。
その後は、全国との差をどうしたら埋めることができるだろうかと考えましたね。
2年生の時の練習量はかなり増えました。練習も走り込みとかトレーニングの量も増えました。量が圧倒的に多く、非常にきつかったです。
一方で拘束時間が長くなることでいろんなものを犠牲にしなければならなかったので、この先バレーボールを続けるわけではなかったり、進学するために勉強しなければならなかったりした部員とぶつかり合うことも多かったです。
さらに2年生からは主将を務めました。入学時は県大会ですら結果が残すことができず、春高バレーも一回戦負けで終わったので、「もう一度栄を強くさせたい、全国で結果が残せるようにしたい」という思いで取り組みました。
そのため、部員全員のバレーボールへのモチベーションの調整も監督と色々試行錯誤しながら取り組み、考え方のずれは積極的にコミュケーションを図ることで解決するよう心がけていました。
また主将として率先して練習に取り組むようにし、性格的なこともありますがどんなに疲れた時でも手を抜きませんでした。練習中も他の部員とコミュニケーションを取り、手を抜いている部員がいれば注意もしました。
部員間で力の差はありましたが、全く試合に出られない実力の部員はいませんでしたし、試合に絡むためのアドバイスをしましたね。例えばサーブで活躍したいという部員にはサーブの打ち方を教えて、うまくできるようになると一緒になって喜びました。
また自信を無くしている部員がいたら、チームの雰囲気も悪くなりかねないので、普段以上にコミュニケーションを取るようにしました。
その甲斐もあって、全員が上を目指すような空気感が生まれ、結果を残すことができるようになりました。
ただそんな中で出場した春高バレーは再び1回戦で敗退。本当に最悪でしたね(笑)。
練習量も増えて、いろんなことに取り組んだにもかかわらず、言葉では言い表せないくらいひどい内容でした。もう涙も出ませんでした。自分の限界を感じてしまった部分もあったりして…。その1年間の記憶を全て消したいと思ってしまいました。
実際、大会終了後のモチベーションは自分としては非常に下がっていました。
ただ、そうした状況で4月の新入生の入部は大きかったです。自分の中学校の後輩でその世代の主力メンバーが入部してくれて、彼らを見たときに「チームがガラッと変わるぞ」と思いました。
あとこの2年間の練習内容では勝てないと思っていたところもあり、彼らの入部に先立って監督と練習メニューやチームメンバーの構成を話し合ってきました。その際、自分の意見を多く取り入れていただき、本当に感謝しています。
具体的には各々の課題や技術レベルにあった練習メニューの組み方やコンディション調整です。特にコンディションは僕も一人ひとりの疲労を把握し、監督に伝えて考慮した練習に変更することもありました。
加えて自分達と監督が思っているバレーボールのスタイルが一致し始めたのも大きかったですし、インターハイでも半分以下ではありましたが、手ごたえを感じました。
最後の春高バレーは結果的には二回戦で優勝した鎮西高等学校(熊本県熊本市)にフルセットまでもつれこみあと一歩のところで負けましたが、最後の最後で自分達がやりたいようなバレーボールがようやくできました。後悔や高校1、2年生の頃の嫌な部分とか全部すっきりしたというか、フラットになりました。
コロナ禍で取り巻く環境が一気に変わってしまい…
大学は様々なところから声をかけていただきましたが、悩んだ末に挑戦したいと思い、筑波大学(茨城県つくば市)に進学しました。
当時は高校からVリーガーになるという選択肢はなく、大学の4年間やり切って声がかかればいいなという気持ちでした。
ここでようやく埼玉から初めて出ました(笑)。一人暮らしは食生活が大変でした。
高校のころから考えられないほど、とにかく練習が厳しかったので、食べる気力すら生まれない日もありましたが何とか食べていました。
練習はとにかく質も量も全然違いました。高校までの練習が何だったのだろうかと思うぐらいハードでした。
全体練習の時間は、そこまで変わらなかったですが、「自主練習」、「練習前の練習」と「練習後の練習」といった個人練習に非常に時間を取っていました。全体練習はチームを作るための練習で、できていないところは個人練習でしっかりやろうという方針です。確かに全体練習で自分の練習なんかしている場合じゃないですよね(笑)。
自分はトスの練習を重点的に取り組みましたね。今までのトスのあげ方じゃ通用しないと言われました。例えばレセプションの際にレシーバーがどの位置で受けるかなどいろいろと細かく考えて練習するようにしました。
ウエイトトレーニングはトレーナーさんが付いてメニュー管理も考えてくださっていたので、非常にありがたかったです。
上下関係は少し厳しかったですが、あくまで部活動の中だけでそれ以外のところでは先輩とは仲良くさせていただいていました。
また監督からは、「部活動は社会に出る準備段階であり、そのためのバレーボールでもある」とよく言われていましたね。マナーや礼儀、モラルを教えていただきました。そこは厳しいなどという問題ではなくて、自分は必要なものだと思って学んでいました。そうしたところもこの大学で良かったなと思います。
1学年上に坂下純也選手がいましたが、ずっと仲良くさせていただいています。こちらからも喋りやすくて、坂下先輩がいてくれて良かったと思います。今でも先輩が同じチームにいてくれて、非常に安心しています。
試合は2年生の時から本格的に出場するようになって、実戦で分かる課題もありました。
今までは自分がどうにかしてチームを勝たせようと思っていましたが、大学は一人ひとりのレベルが非常に高いので、とにかく自分がしっかりやることを意識し、気が付いたら結果が伴っていました。自分のレベルが上がったというよりは、ひたすら自分がちゃんとやるしかないといった感じでした。
また監督からは今までのやり方に加えて、自分の武器を作るように指導いただきました。今までの自分のやり方は誰でもできるから、自分でしかできないような技を磨けと。
具体的には、トスを上げる時のリズムなど“独特の間”です。上がり際で上げるトスと、落ち際で上げるトスを使い分けて相手のブロッカーを足止めするところとか──。それを武器にできると思って練習し、実際にはまった時にはめちゃくちゃ楽しかったです。ただそれが今V.LEAGUEであまり通用していないので、本当に難しいですね。バレーボールって本当に難しいなって思います(笑)。
2年生までは順調に進んでいたのですが、2020年のコロナ禍で取り巻く環境が一気に変わってしまいました。まずバレーボールの命である体育館が使えないことが一番大変でした。それに公園でボールを触って何とか感覚を保とうとしましたが、それも自粛することになってしまい…。
外出もままならない状況が続いたある日、思い切ってウエイト器具を大量に買いました。ほぼ部屋を改造するような勢いでしたね。それで何とか体を動かすことはできましたが、ボールには触れられずじまいでダメージは深刻でした。
その後ようやく規制が緩和してきた時にグループごとで分かれて、ボールを使った練習もできるようになり始めて、そのあとにやっと全員で練習ができました。
ただ全員で練習ができたとしても、今度は対外試合もできないうえに筑波大学はメンバーも少ないので紅白戦もできなかったので、実戦感覚という面では非常に厳しかったです。
そんな中、リーグ戦などが中止になったのち、3年生の全日本インカレ(全日本バレーボール大学男女選手権大会)は何とか開催されました。
ぶっつけ本番のようなところがありましたが、できる限りの準備はしてきて完成度も高かったので、結果を残せるだろうと思っていました。
ベスト4をかけた日本体育大学(東京都世田谷区)戦は逆転負けしましたが、それでもチームとしては非常に強かったと思います。
4年生からは主将を務めました。バレーボール部は基本何事も自分たちで考えなければいけなかったので、例えば練習メニューも、考えてから監督とすり合わせたときに一つ一つ理詰めされました。
答えに詰まることもですが、いろいろ質問されたときに「ほかの練習は良いのかな」とか「もっと効率的な練習もあるな」などと考えてしまい、返答する際、常に考えなければいけなかったのが辛かったです。
練習試合ができない状況が続きましたが、そんな中でもできないことを言い訳にするのではなく、次対戦した時に相手に「こんなに強くなっているの!?」と驚かれるぐらい練習しようとみんなで決心しました。
練習は最終的に主将の僕と監督ですり合わせてメニューを決めましたが、練習が終わるとみんな立てないぐらいの強度で過酷を極めました(笑)。
「5セット目になっても負けないような体力づくり」を目指していて、それを自分たちの強みにしたいと思いました。
特にシートレシーブでは最低10分間コート中を走り回ってきつかったです…。
春季リーグ戦は4位で、ベストセッターを受賞しましたがやっぱり本音を言うと、優勝したかったです。逆に4位のチームから選ばれたことがプレッシャーになりましたね。受賞翌日からは全部忘れるぐらいの気持ちで練習に取り組みました。
最後の全日本インカレは大学生活の集大成でしたが、今振り返ると完成度は70~80%程度だったと思います。さらに準決勝の順天堂大学(東京都文京区)戦はフルセットで負けた上にエースがけがをしてしまいました。
そんな中迎えた3位決定戦の中央大学(東京都八王子市)はこれまでも勝てていなかった相手でうちの選手層の薄さもあり、正直不安でした。
ただエースに代わって入った選手が必死に頑張ってくれて、フルセットまで持ち込むことができました。結果的に負けましたが、大学4年間で一番チームらしい戦い方が出来た試合で印象に残っています。高校時代の鎮西戦に続いて、自分のバレーボール人生の思い出に残っている試合です。
「よりゲームメイクできるような選手」になりたい
大学卒業後はいくつかのチームから声をかけていただきましたが、自分の判断で広島サンダーズを選びました。
初めて関東から離れることになりましたが、広島はとても過ごしやすいですし、新しいスタートを切った感覚です。
V.LEAGUEは上位のチームになればなるほど、ゲームメイクが全く違いますね。プレーの質もですが、メンタリティーも素晴らしい。自分もそのレベルになるように頑張っていきたいと思います。
また学生時代は限界まで体を追い込んでも回復することで問題はなかったですが、今後できなくなる時があります。
ベテランの選手を見ていると、短時間でどれだけ自分のパフォーマンスを発揮できるか、具体的には試合中に徐々に調子を上げていくのではなく、最初から最大のパフォーマンスを発揮することが大切だと思いましたね。
プレースタイルとしては「よりゲームメイクできるような選手」になりたいと思います。
ゲームの流れを瞬時に判断することはもちろん、スパイカーのその日の調子や、相手のブロッカーも見なければいけません。そんな中で高い精度のトスを当たり前のようにできるようにしなければ、上位では戦えないと思います。できる限り早く上位のチームのセッターと対等に戦い合えるようになりたいと思います。
自分としてはトス回しも強みのうちの一つなので、さらに磨きをかけて相手との駆け引きを楽しみたいですね。
- 本記事は、2022年9月時点のインタビューに基づいたものです。