「厳しい」よりも「勝てない」ことが嫌だった
バレーボールを始めたのは小学校2年生の時です。理由は単純で、4歳上の姉がバレーボールをやっていて、その練習を見て「面白そうだな」と思いました。もともとスポーツに興味がある方ではなかったのですが、小学生の頃から背も高かったこともあり、バレーボール部の先生に誘われ、何となくバレーボールを始めて、他に興味があることも見つからなかったのでそのままバレーボールを続けました。最初はそんな始まりでした。
私の所属していたチームは名門ではありませんでしたが、練習は週に6日、土日は練習試合で厳しかったです。「バレーボールをやめたい」と思いましたが、「やめたい」と思った理由は練習が厳しかったからでも友達と遊べないからでもなく、試合に勝てないのが嫌だったからです。それほど強いチームではなかったので、試合に負けるたび「勝てないからもう嫌、やめたい」と言っていました。当時から、ものすごく負けず嫌いでした。
金蘭会中学校(大阪府大阪市)に進もうと決めたのも今思えば自然な流れだったのかもしれません。当時から「将来はバレーボール選手になりたい」と思っていて、どうせやるなら勝てないチームではなく、実力のあるチームでうまくなりたいという思いが一番強かったです。
練習は厳しいだろうと覚悟していたつもりでしたが、実際は想像以上でした。金蘭会中学校は「日本一を目指す」という言葉が当たり前に飛び交っていました。「日本一」になるために、とにかく基礎や基本練習を徹底的に練習しました。
パスをする前に1人で直上トスの練習をしたり、膝をつかずにしゃがみながら前に進む「アヒル歩き」をしながら、アンダーハンドパスやオーバーハンドパスをひたすら繰り返す練習や対人レシーブの反復練習が続くので、脚はいつもパンパンでした。バレーボールの練習だけでなく、生活面も厳しく指導されて、あいさつや荷物の整理、集合時間に遅れると厳しく怒られるので、ボールに触る時間以外もいつも気を張っていました。
自宅から学校まで片道1時間弱かかるので、毎日家を朝6時に出て、帰ってくるのは22時頃の生活でした。疲れていてもゆっくり眠る時間もない。入ったばかりの頃は、この環境で本当にやっていけるのか、不安しかありませんでした。
全国大会は2年生の時は2位に終わりました。その時「絶対に勝とう!」と誓って、1年間ひたすら練習しましたね。その成果が実り、3年生の時に「日本一」に輝くことができました。
金蘭会高校時代に思い知らされた勝負の厳しさ
中学の頃は基礎練習がメインでしたが、高校に入ると基礎練習に割かれる時間は少なくなり、1日の練習の大半はゲーム形式のチーム練習になりました。基礎練習ならできるまでどれだけでもやればいいし、居残りしても自分ができないのだから仕方ないと割り切ることができました。しかし、チーム練習では自分ができないと周りに迷惑をかけてしまうので、6対6のゲーム形式の練習が終わった後はいつも自主練習をしていました。
全国のチームと練習試合をする機会も多かったので、試合に出る度に課題が見つかりました。サーブレシーブはどれだけ練習してもなかなか感覚がつかめなかったので、うまくできた時はどんな取り方をしていて、うまくいかない時は何が悪かったのかを自分なりにいろいろと考えながら取り組んできました。
技術も精神面もまだまだでしたが1年生から試合に出場し、レフトのポジションでインターハイや春高バレーなどの全国大会を経験しました。試合中は先輩方がフォローしてくれていたので、「思い切りやればいいんだ」と思っていたのですが、それでもミスをすると落ち込んでしまい、試合中に「またミスをしたらどうしよう」とか「先輩に迷惑をかけてしまって申し訳ない」とか、心の中でいろいろなことを考えていました。
「負けるのは嫌だ!」その一心でやってきたつもりでしたが、本当の意味で勝負の厳しさを思い知らされたのも高校時代です。
1年生の春高では先輩方に引っ張ってもらったおかげで準決勝まで勝ち上がり、初めてセンターコートに立ちました。しかし、連覇がかかった大事な試合、あと2勝すれば日本一という大切な試合で私のスパイクミスが最後の失点となり負けが決まりました。
負けた悔しさ以上に、ただただ先輩方に申し訳なくて、それなのに先輩は「来年頑張ってね」と私をねぎらってくれる。もうこんな思いは絶対にしたくないと思って必死に1年間練習に取り組んできたつもりだったのに、翌年の春高も同じように準決勝敗退でした。フルセットで敗れた後、泣き崩れる先輩の姿を見て、心の中で「ごめんなさい」とか「私のせいだ」とか、いろいろな言葉が浮かびました。でも、本気で日本一を目指して必死でやってきた姿を見てきたからこそ、苦しくて、声をかけることはできませんでした。
三冠を狙うもインターハイは初戦敗退
最上級生になり、キャプテンになった時、それまでは先輩に引っ張ってもらって、背中を追いかけるだけでしたが、今度は私が引っ張らなければいけないと気付きました。コートに入る3年生は私だけでしたが「後輩を助けてあげたい」という思いよりも、「負けていった先輩方の思いを背負って戦いたい」という思いが強かったです。一緒にコートへ立って戦いながら、勝って送り出すことができなかったので、今まで助けてもらった恩返しをするつもりで「負けていった先輩たちの分も絶対に勝つんだ」と思っていました。
コートに入る後輩たちは全員がユース(U18)代表だったので、周りからはインターハイ、国体、春高の三冠を取るだろうと言われていましたし、私たちも「三冠を取ろう」と誓い合っていました。
しかし、三冠を取るための準備が足りなかった。それが結果になって現れたのが最初のインターハイでした。私たちはシード出場で2回戦が初戦でしたが、そこで対戦した誠英高校に何もできないままあっさりとストレートで負けてしまいました。接戦で粘り負けたという展開ではなく、自分たちから勝手に崩れていました。池条義則先生からも怒られるどころか呆れられ、負けた私たちも涙すら出ない状態でした。とにかく情けなくて、このままではダメだと一人ひとりが真剣に思わされた瞬間でした。
バレーボール人生で「一番負けたくなかった」最後の春高
池条先生からは2年生の頃とは比べ物にならないぐらい厳しくされましたね。言われるのは技術面ではなく、いつも決まって精神面でした。特に、キャプテンとしてチームを引っ張る姿勢について、先生は私の弱さを見抜いていました。
もともと人前に立って、みんなをグイグイ引っ張っていくことが苦手で、周りに対しても積極的に意見することができませんでした。私がリーダータイプではないことを分かった上で「林が変わらなければ勝てない」とキャプテンにしたのだと思います。当時は「自分には無理だ」と思っていたので、後輩に対して意見しなければならない時も、私が周りに言えないとわかっている同級生たちが代わりに注意してくれました。私にとっては心強い援軍でしたが、先生からはいつも「人に頼るな!」と叱られました。
コートに立つ3年生は私だけでしたが、同級生の存在は私にとって常に大きな支えでした。試合に出る機会が少なくても一生懸命練習に取り組んで、後輩たちよりも声を出す。ゲーム形式の練習になれば嫌がらずに審判の役を引き受けてくれたり、一番近くでサポートしてくれるだけでなく、個性の強い後輩たちをまとめるのに「どうしたらいいんだろう」と私が迷うたび、いつも一緒に考えてくれたのが同級生たちでした。
いつも支えてくれる同級生のために「絶対勝とう!」「負けたくない」と小学生からのバレーボール人生の中で、一番思ったのが最後の春高でした。
最後の春高は不思議なぐらい緊張することもなく、「自分がレシーブを返せば後輩が決めてくれる」と迷いがありませんでした。まず私が果たすべき役割はレセプションだと思っていたので、相手のサーブに崩されることもなく、初めて試合を通して安定したプレーをすることができました。
決勝で対戦した東九州龍谷高校も強いチームで、点差を広げてリードしたと思ってもまた追い上げてくる。終盤、競り合った場面で私のスパイクがブロックされてしまい、嫌な空気になりかけました。そこでタイムアウトを取り、後輩のセッターから「琴奈さん、最後は中か外どっちにしますか?」と言われた時、「最後はトスを私に持ってきてくれるんだ」と確信し、奮い立ちました。
最後の1点を決められたこと以上に、私を信じて最後のトスを託してくれたことが何より嬉しかったです。
周りからは「華やかな高校生活だよね」と言われますが、振り返ると思い浮かぶのは負けた試合のことばかりです。最後の最後で勝つことができたのは、1、2年の春高で負けた悔しさがあったからです。池条先生にはいつも怒られるばかりで、褒められたことなど一度もありませんでしたが、「インターハイはお前のせいで負けたけど、春高はお前のおかげで勝った」と卒業してから言われた時、初めて先生に褒められて、とても嬉しかったのを覚えています。
Vリーグのデビュー戦が優勝決定戦
大阪マーヴェラスへの入部を決めたのはインターハイの直後です。出身地である関西で頑張りたいという気持ちが強くあったのと、合宿で何度もお世話になって、練習を見る度にとても明るくて雰囲気のいいチームだな、という印象があったからですね。
でも、一番の決め手は「強いチームでやりたい」と思ったからです。吉原知子監督も厳しい指導をする方なんだろうなと思っていましたが、だから強いチームになるんだとも思いました。子どもの頃からの負けず嫌いは変わらないので、大阪マーヴェラスに惹かれ、このチームで私も強くなりたいと思いました。
ただ、あんなに早く出番が来るとは思わなかったので、びっくりしましたね(笑)。
春高を終えて、2月にチームへ合流したばかりで、まだ自分が何をすればいいのかも分からない状態、高校時代よりもはるかに厳しい練習についていくだけで必死でした。トモさん(吉原監督)からも「準備はしておいてね」と言われたので、もしかしたら出番があるのかもしれないと思いました。
2017/18 V・プレミアリーグ、2週に分かれた久光製薬スプリングスとのファイナル初戦。点数が離れた場面で投入されましたが、1戦目は敗れてしまい、2戦目、出ることがあったとしても同じようにワンポイントの起用だろうと思っていました。試合当日の東京体育館、会場練習が終わってスタメンに自分の名前が呼ばれた時は、返事をしながらも「どうしよう」と焦っていました。
試合が始まる前も、始まってからもとにかく緊張して、脚が震えていました。相手は強い久光製薬、当然サーブで私を狙ってきました。ここでひるんじゃダメだと思いながらもチームの足を引っ張るばかりで力にはなれませんでした。Vリーグで日本一になるために、もっともっと頑張ろうと心から思いましたね。
どんな相手にも負けたくない
ファイナル出場からスタートし、夏場の苦しい練習やトレーニングを重ね、1年目のシーズンも試合に出場することができました。周りの選手とコミュニケーションを取れていたので、最初の時ほど緊張することはなく、少しずつ地に足がついてきたのが1年目でした。
でもまだまだ自分自身を振り返ると弱い部分ばかりで、ミスを引きずってしまうし、大事な場面で決めきれず、2018-19 V.LEAGUE DIVISION1ファイナル3でも、初戦を勝ち、2戦目も1セットを先取したのに崩れてしまいました。
「負けたら終わり」の相手が気合を入れて臨んでくることはわかっていたにも関わらず、相手を押し切れず、相手の勢いを受けてフルセットで敗れ、ゴールデンセットで負けるという一番悔しい終わり方を味わいましたね。
まだ2年目で若手と言われる世代ですが、いつまでも甘えていては強くなれないと思っています。後輩も入って来たので、私も周りに頼るのではなく自分から積極的に動き、チームを日本一へ導けるような存在になりたいです。
プレーの面ではレシーブだけでなく攻撃も磨きをかけ、バックアタックにも積極的にチャレンジしたり、どのポジションからでも「最後は私にトスを持ってきて」と言えるくらいに攻守ともに自信をつけられるようなプレーがしたいです。
Vリーグで活躍する選手はみんなうまい人ばかりで、強さを見せられるたび「私はこの人に勝てるかな」とまだまだ不安や課題のほうが多いです。とは言え負けず嫌いな性格なので、課題を克服し、昨年チームとして果たせなかった三冠を狙っています。胸を張って「自分の武器はこれだ」と言えるように、もっともっと頑張ります。
- 本記事は2019年8月時点のインタビューに基づいたものです。